則天武后

sokutenbukou

出生 唐
生誕 624年?
身分 皇帝

後宮の末端から

 中国の悪女といえばおおよそ三人の名前があがります。
 それは呂后、西太后、そして則天武后です。

 武照(後の則天武后)は州都督である武士彠(ブシカク)の子として、代々資産家である家に生まれます。上流階級の家に生まれた武照は英才教育を受けて育ち、十四歳で唐の皇帝太宗の後宮に入りました。
 唐朝の制度では后が一人のほか、妃が四人、昭儀が九人、婕妤が九人、美人が四人、才人が五人、そしてその下にそれぞれ二十七人から成る侍女がおり、これを総称して後宮といいました。この後宮は皆、皇帝と寝所をともにすることが可能でした。武照は後宮の一人となりましたが、序列としては低い才人の一人にすぎず扱いとしては女官のようなもので、もっとも大事な仕事は皇帝の寝具を交換することでした。
 武照は美しく聡明でありながら、皇帝太宗の寵愛を受けることはありませんでした。

 この才人として後宮のひとりとして務めているとき、武照はひそかに皇太子である高宗と通じていました。出会いは病気の太宗の看護をしていたときとも、厠から出てきた高宗に手洗いの鉢を差し出したこととも言われます。
 後者では高宗がうっかり鉢から水を飛ばしてしまい武照の白塗りの化粧を台無しにしてしまった際、武照は「天からの恵みの雨を謹んでお受けします」といったエピソードがあり、これは雨を明らかに精液に例えた、前戯と性行為をきわどく詩的に表現したものでした。

皇帝の子を宿し

 武照が二十五歳になったとき、皇帝太宗が亡くなり高宗が皇帝となります。
 亡くなったあとも太宗と武照の関係は続いていましたが、儒教の法では息子が父親の側室に手を付けるのは近親相姦とみなされていたため、ずっと秘密にしていました。

 父の跡を継いだ高宗は、病弱、わがまま、気が弱いという人物で、自分より五歳年上の武照を庇護者のように見ていました。

 高宗にはすでに王氏という后がいましたが、密通を続けているうちに武照が彼の子を宿したことを知ると、強引に側室へと取り立てます。
 これには皇后でありながら子供ができず、妃であった蕭氏に高宗の寵愛が移りそうになっていたため、蕭氏に対して共同戦線を張りたい王氏の思惑も働いていました。

 この時代の唐はインドやサラセン帝国まで支配していた最盛期でした。国の基盤が次々と整備され優れた詩歌が作られるなど華々しいものでしたが、宮廷ではどろどろとした権力争いの最盛期でもありました。犯してもいない罪で政敵を告発したり、邪魔な人間は自殺を”勧め”られるのが日常茶飯事でした。
 そんな中武照は皇帝太宗、皇后王氏、そして本来はライバルとなるはずだった蕭氏を手玉に取り、一年足らずのうちに王室を手なづけていました。王氏の思惑通り武照は太宗と簫氏の間に割って入りましたが、その簫氏が受けていた寵愛をものの見事に自分のものとしました。

后となるために

 やがて武照は女児を産みます。そして武照はこれを機に王氏を失脚させることを目論みました。

 女児が生まれて十日ほど、子供に恵まれない皇后王氏が慣習に従いその女児の様子を見に来ます。皇后は赤子を抱き、しばらくあやすとゆりかごへと戻します。そして皇后がその場を立ち去ると、武照はこっそりと部屋に戻り、赤子を窒息させ布団をかぶせました。
 その後その部屋に皇帝太宗がやってきて、その死んだ赤子を発見します。武照はそれを見て大いに泣きわめきます。赤子が殺され半狂乱になる母親、子供ができず他の後宮が子供を産めば産むほど立場が危うくなる后、情況証拠は完璧です。

 またある時、皇帝が狭心症の発作を起こすと、皇后が妖術を用いて皇帝を殺そうとしているという噂が流れます。すると皇帝の寝台の下から木彫の人形が発見され、それには皇帝の名前と星が刻まれており、心臓を一本の釘が貫いていました。もちろんこれも武照の策略です。

 相次ぐ事件により宮中はたちまち大騒ぎとなりました。先帝からの忠臣が事を収めようと奔走するも、身の潔白を証明することのできない王氏はついに捕えられてしまいます。
 そしてその後に座ったのが武照です。三十一歳の時でした。こうして武照は皇帝の后となりました。

 后となった武照、すなわち武后は続いて簫氏も捕えます。そして王氏とともに百叩きの刑に処せられました。そして二人の手足をの先を切断し、腕と足を逆方向に折ると、生きたまま大きな酒樽の中へと放り込みます。哀れな二人は二日ほどで死んだといいます。
 武后は嫉妬深く、その後も高宗にお気に入りができるとその対象はことごとく”怪死”するのでした。

政治の実権の掌握、そして即位

 武后はその座につくと、遺言執行人であった老政治家たちを排除し、政治の実権を握りました。
 はじめは高宗の陰となり表に立たない垂簾政治でしたが、高宗が幾度と発作に倒れ失明して歩くことも話すこともできなくなると、彼女が表立って皇帝の任を負いました。

 やがて高宗が死ぬと、武后は皇太后となります。
 先代皇帝の后は普通表舞台から退くものですが、武后は違いました。息子を皇位に据えると、自分が実権を握ります。そしてその息子が従順でない素振りを見せると追放し、下の息子へと取り替えます。
 そうして四人の息子を次々と廃位すると、ついに自分が帝位へと座りました。

 武后は国号を唐から周へと改めました。当然皇族からの怒りを買うのですが、その批判をしたものは全員追放や処刑にします。
 町では『提案箱』を設置し、匿名で密告をできるようにしました。これは実際に高官の失脚へとつながる情報も多く、取り調べを受けた半数は殺されるか、殺されずとも自殺を選びました。

 処刑の量が増えればその殺し方や拷問の仕方も発達します。
 裁判所の役人は『酷吏』と呼ばれ、民衆に最も恐れられました。
 中でも索元礼という酷吏は鉄の帽子を被告にかぶせ、クサビでその帽子を徐々に締め付ける方法を得意としました。口を割らない被告は締め付けられ続け、いずれそのまま頭蓋骨が砕け散ります。
 他にも耳に泥を詰める、胸を圧迫する、爪の間に竹を刺す、髪の毛で吊るすなどが『告密羅織経』という書物で共有され、酷吏たちはいかに罪人を作り上げるかということに腐心していました。

 武后は性の部分でも宮廷を牛耳っていました。
 六十六歳ときに男を集めた後宮や、愛人を数多く作ったといいます。肌のきれいな歌のうまい兄弟、巨根の行商人、実の甥などその相手は多岐に渡りました。
 中でも薛懐義という元薬売りの僧には熱心で、武后はこの男のために広い明堂や巨大な大仏などを建て、新たな経典を国中に配布するなどしていました。しかしこれは自分と薛懐義の欲望を満たすだけではなく民衆にも強い影響力を与
え、政治的にも有用でした。

晩年

 晩年の武后は今までの粛清や専横を行っていたときとは別人のように殺戮をやめ、正しい人物を重用するようになります。税金は軽減され、法律の改正により父親の死のみではなく母親の死もキチンと悼むようになりました。
 そして皇帝になって十五年、愛人と余生を過ごすような日々になりつつも病床に臥せることが多くなってくると、次第に唐王朝復興の機運が高まってきます。やがて追放した息子が率いる一派に退位を迫られ離宮にて監禁されると、その年のうちに中国史上唯一となる女帝は亡くなりました。


参考文献
澁澤龍彦/『世界悪女物語』/文藝春秋
リンダ・ロドリゲス・マクロビー/『悪いお姫様の物語』/原書房
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