メアリー・ステュアート

Mary,_Queen_of_Scots_in_Captivity

出生 スコットランド王国
生誕 1542年12月8日
身分 スコットランド女王、フランス王妃

可憐なる幼少期

 メアリーは二人の兄と父の早世により、生後6日でスコットランドの女王となります。そして6歳でフランス皇太子と婚約をするとすぐさまパリへと移住します。
 メアリーはフランスの宮廷にて養育をされると、ラテン語の読み書き、詩作、音楽、舞踊に非凡な才能をみせ、舅のフランス国王アンリ二世が「こんな完璧な子供はいまだかつて見たことがない」と感嘆するほどだったといいます。また芸術面での才能だけでなく、スポーツや狩猟の能力に加え、生まれついての美貌、服装の着こなし、品の良さなどどれをとっても素晴らしい王妃でした。

 彼女は15歳で婚約を交わしていたフランス皇太子フランソワ二世と結婚をします。そして翌年、アンリ二世の事故死によりフランソワ二世がフランス国王となり、メアリーはフランス王妃となりました。メアリーはこの時点でスコットランド女王、フランス王妃というふたつの身分とイングランドでの高い王位継承権を有していました。
 しかしそのフランソワ二世は生まれながらにして病弱で、その翌年に病死してしまいます。フランス王妃としての身分がなくなり、自身の母の死も重なったことからメアリーはスコットランドへと帰国します。
 帰国するなり宗教の対立など大きな問題と直面しますが、彼女の政治は比較的スムーズに始まります。

うつろう女心

 帰国後にフランスから連れ帰ったシャトラールとスキャンダラスな噂となります。シャトラールはその詩才によって女王の寵愛を集めましたが、あるとき無謀にも女王の寝室に忍び込んだところを見つかり首を刎ねられました。
 若くしてフランソワ二世を亡くし、未亡人となったスコットランド女王メアリーのもとには様々な縁談がもちかけられ争奪戦となりましたが、メアリーは自分が愛した4歳年下のダーンリー卿と結婚をしてしまいます。しかしこのダーンリー卿は家柄こそ申し分ないものの、見栄っ張りで性格の弱い愚か者でした。国事に我が物顔で干渉する、メアリーの義兄を感情的な理由で追い出す、メアリーの秘書を嫉妬により殺すなど、その行動によりメアリーとの仲は1年足らずで冷えきってしまいます。

 自分の周りに信頼できる人間がいなくなったメアリーは、軍人のボスウェル伯を寵愛するようになります。ほぼ30歳であるボスウェル伯は「一塊の黒大理石に刻んだような人物」と評されるような猛々しい容姿で、家柄と教養、そして卑しい貴族たちへの軽蔑を隠さないなどの男らしさも持ち合わせていました。ボスウェル伯はメアリーのために献身的に働き女王の信頼を得ると、たちまち強大な軍事独裁権を持つようになりました。
 彼女はそんなボスウェル伯に魅力を感じます。病弱だったフランソワ二世、愚かで女々しいダーンリー卿とは違い、女性としてその身を捧げられる人物として、重い信頼は激しい愛情へと変化します。彼女がこの時に書いた詩が今でも残っています。それは以下のような内容で、メアリーの性格がうかがい知れる資料となっています。

あの方のために、それ以来、わたしは名誉をあきらめました
あの方のために、わたしは権勢と良心を進んで賭けました
あの方のために、わたしは身内と友達を捨てました

 今までメアリーの伴侶は年下の男性のみで、初めて男性的に支配される喜びを知ったメアリーの感情はさらに燃え上がっていきます。しかし、メアリーにはダーンリー卿、ボスウェル伯にも妻がいました。そしてなによりも、ボスウェル伯はメアリーを愛していませんでした。彼にとって女性は一度支配してしまえばそれ以上に大した魅力はなく、現在の結婚生活に満足しておりなおかつ野心家である彼にとって、メアリーの魅力はその地位だけでした。
 メアリーはそれを承知していました。離婚はカトリックにおいて禁じられていましたが、彼女の決意は並大抵のものではありません。メアリーはボスウェル伯と画策し、古ぼけた家に呼び込んだダーンリー卿を爆破して殺害します。
しかし国民たちと周辺諸国の誰もが、その犯人が誰なのかはわかっていました。女王の夫が死んだのですから、当然周辺諸国は下手人を探せと女王を突き上げます。しかしメアリーは言い訳するわけでも悲痛の面持ちをするわけでもなく、ただその事態を傍観し、そしてその3ヶ月後にボスウェルと結婚しました。上記の詩が単なる恋愛詩ではなく、メアリーの性格を知るに重要な資料となっているのがわかっていただけたでしょう。

逃亡、幽閉、そして最期

 若く不幸な女王、そんな国民の評価も一変します。宗教的に争っていたカトリック・プロテスタント双方から揃って糾弾され、当然周辺諸国の同情も失い、彼女は夫殺しとして孤立します。そんな状況にまもなく国内の貴族たちが反乱を起こすと、旗色の悪さからメアリーとボスウェル伯は城から遁走します。
 やがてメアリーは捕らえられ、廃位と王子への王位継承に同意させられると、片田舎のロッホ・レーヴェン城へと幽閉されます。対してボスウェル伯は兵を集めて反撃を試みるも失敗。北部の島に逃れて海賊となりましたが、やがてデンマークの軍艦に捕まり、そのデンマークの牢で狂死したといいます。

 その1年後、メアリーは城主の息子ダグラスの手を借り、小舟で湖を渡り逃亡しました。そして6000人の兵を集め復位を試みるも敗れ、血縁であるイングランド女王のエリザベスを頼ります。エリザベスとしては宗教問題やスコットランド問題、そして王位継承権の問題によって(メアリーはエリザベスよりずっと正しい継承権をもっている)トラブルの種となるのは目に見えていましたが、慈悲深い女王としての立場があるエリザベスとしても血縁をスコットランドに送り返してみすみす処刑させるわけにもいかず、イングランドで受け入れて囚人のように扱い城を転々とさせることに決めました。

 以降の19年は彼女にとってなんの意味も持たない人生でした。彼女の周りではメアリーを擁してエリザベスを倒そうという動きが何回もあり、そのたびにイングランド議会ではメアリーの処刑を望む声が大きくなっていきました。メアリーも自身を幽閉したエリザベスと和解する気などさらさらなく、やがて裁判にかけられ死刑を宣告されます。
 彼女は最後に黒褐色のビロード製の上着、黒い絹のマント、そしてその中に絹の赤い下着という芸術的な死装束で処刑をされました。メアリーは少しも震えず、自ら進んで断頭台に首を差し出し、王者として死んだといいます。44歳での死でした。

今日の評価

 メアリー・ステュアートは、『悪女』としてカテゴライズされることが多い人物です。しかし、その悪女的な部分に運命と人間性そして強い意思を感じられる人によっては一人の女性として魅力を感じる向きもあるでしょう。ワガママで愚かな女王。愛と決意に身を委ねた女王。自らが愛した男性を全員不幸な死に様にさせたのもそのイメージに拍車をかけています。フランソワ二世から始まり、詩人のシャトラール、ダーンリー卿、ボスウェル伯と全員早世や悲惨な死を遂げています。
 男たち全員を不幸へと陥れた美しさに魅力を感じさせるのか、母国スコットランドでは非常に高い人気があります。ドラマや映画はでは今でも題材にされ、歴史的イベントや観光ポスターにメアリーが用いられることも多いといいます。スコッチ・ウィスキーのハイランド・クイーンやクイーン・オブ・スコッツはメアリーの呼び名から名づけらたもので、彼女は今でもスコットランドの文化に生き続けています。


参考文献
森下賢一/『国を傾けた女たちの手くだ』/白水社
澁澤龍彦/『世界悪女物語』/文藝春秋
岳真也/『悪女たちの残酷史』/講談社
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