アグリッピナ

Agrippina

出生 オッピドゥム・ウビオルム(現在のドイツ・ケルン)
生誕 西暦15年11月6日
身分 ローマ帝国皇妃

暴君ネロの母

 史上初めてキリスト教を迫害したことにより、獣の数字やアンチキリストの化身として知られるネロ。この母親がアグリッピナです。母も同じアグリッピナという名前のため、区別する際には小アグリッピナ(母は大アグリッピナ)とも呼ばれます。

 アウグストゥス帝のひ孫、そしてカリグラ帝の妹であるアグリッピナは15歳で最初の結婚をするものの、ほどなくして夫が亡くなり未亡人となりました。17歳で貴族と再度結婚をして、22歳で後の皇帝ネロを産みます。このネロを産んだ時に高名な占星術師に占ってもらうと「この子はやがて皇帝となり、母を殺すだろう」と神託しました。アグリッピナはこれをたいそう喜び「皇帝にさえなってくれれば殺されたって構うものか」と叫んだといいます。
 そしてネロを産んだ3年後、またしても夫が亡くなります。アグリッピナは若くして2度も未亡人となりました。

皇妃になるまで

 アグリッピナは兄のカリグラ帝の側近であるレピドゥスを誘惑して暗殺を計画しましたが、それが露見し孤島へと追放されます。しかしその翌年にカリグラ帝が暗殺されたため、アグリッピナはすぐに赦され、ローマへと戻ることができました。

 カリグラ帝に代わり新しく皇帝となったクラウディウスが即位したあとに、妻のメッサリーナが刺殺されるという事件がありました。それを好機とみたアグリッピナは皇帝が一番寵愛している側近パルラスに色仕掛けで迫り、皇帝にとりなしてくれるよう懇願しました。そしてアグリッピナの目論見どおり、クラウディウスは再婚の相手としてアグリッピナを選びました。
 クラウディウスとアグリッピナは叔父と姪の関係にあたるため、ローマの法律では結婚をすることは本来不可能なことでした。しかし解決は簡単。ローマの婚姻法自体を変えてしまえばいいのです。
 こうしてアグリッピナは33歳にして皇妃の地位を手に入れました。

アグリッピナの専横

 最大の権力を手中に収めたアグリッピナは、公然と国事に干渉します。
 彼女の肖像が掘られた貨幣が鋳造され、各地方では彼女の似姿が神のように礼拝することを強要しました。パルラスを情夫としていることを隠さないことで政治的発言力を大きいものにし、元老院の会議にも口を出しました。軍の親衛隊長にも自分の息がかかった者を任命し、口うるさい忠臣は片っ端から追放する恐怖政治を布きました。

 アグリッピナは嫉妬深くもありました。
 カルプルニアという貴婦人の美しさを皇帝が褒めたというと、翌日にはカルプルニアは追放されます。皇帝の再婚相手の座を争ったパウリニアという貴婦人を適当な理由をつけて処刑した際は、斬り落とされた首を手に取りその口をこじ開けて、本当にパウリニアなのか歯の特徴を細かく観察したといいます。

皇帝の母となるために

 そしてアグリッピナは自身の子であるネロを後継者にする準備を着々と進めていきます。

 まず、クラウディウス帝と3番目の妻との間の娘であるオクタヴィアとネロを結婚させるように画策をします。オクタヴィアにはすでにシラヌスという婚約者がいましたが、シラヌスに近いものに金銭を渡し「シラヌスは実の妹と近親相姦の仲である」と訴えさせます。クラウディウス帝はそれに驚きふたりの婚約を解消させました。これにより障害がなくなり、首尾よくネロとオクタヴィアを婚約させることに成功します。ハメられたシラヌスは絶望して自ら命を絶ちました。
 これによりネロはクラウディウス帝と形だけしか関係のない人間から、深くクラウディウス帝の家系に入り込んだことになります。そしてアグリッピナの計算どおり4番目の妻との間にできていた息子ブリタニクスを押しのけ、ネロは後継者に指名されました。
 そして赤ん坊の時からネロの世話をさせていたレピダも殺害します。ネロは育ての親であるレピダに深い愛情を持っており、実際幼かったネロに性の手ほどきをしたのはレピダでした。成人したあとも二人の関係は続いており、そのうち帝となることが決まったネロを思いのまま操るには邪魔な存在だからでした。

クラウディウス帝の殺害

 このころになるとクラウディウス帝も身辺の怪しい動きに気付き始めます。ネロに決めた後継者もブリタニクスに決めなおそうという動きも出始めてきました。アグリッピナに残った最後の仕事は、事が変わってしまう前になんの用もなくなったクラウディウス帝を消すことだけとなりました。
 当時のローマにはロクスタという、毒薬使いとして評判の高い女がいました。普段は親衛隊長の管理する牢に繋がれており、有事の際にだけ牢から出されるという人物でした。アグリッピナはこのロクスタに相談を持ちかけ、毒殺の方法を決めました。

 クラウディウス帝の誕生日に開かれた宴会で大好物であるボレトゥスという大きなキノコを口にすると、宴会の終わり頃にクラウディウス帝が吐き気を訴えました。しかし、毒を仕込んだキノコの他にも食べたものの量が多かったせいか、毒はなかなか効き目をあらわしません。
 あせったアグリッピナは侍医に目で合図すると、胃の中のものを吐かせると言ってガチョウの羽根でクラウディウスの喉の奥をさすりました。この羽根には即効性の毒が染み込ませてあり、たちまち全身を引き攣らせ死亡しました。

 かくしてネロは帝の座についたのでした。

ネロとの立場の逆転

 ネロは政治を行うにあたり、後見人である母の権力を疎ましく思うようになってきました。母アグリッピナの情夫であるパルラスの専横に我慢できず、パルラスを追放しました。アグリッピナはそれに烈火のごとく怒り「お前に皇帝の資格などない。ブリタニクスこそ正当な継承者だ」と毒づきました。
 尽きることのないアグリッピナの権威欲にネロの側近も警戒し、皇帝の力で彼女を抑えこもうとしました。対してアグリッピナはネロを廃し、ブリタニクスに代わらせようと企むようになりました。
 ネロはブリタニクスが生きていてはいつか自分が殺されると思い、アグリッピナがクラウディウス帝を殺したときのように宴会の席で毒を混ぜ、ブリタニクスを殺害しました。

 ブリタニクスの殺害に成功するとアグリッピナとネロの立場は逆転し、今度はアグリッピナが殺害に怯える番となりました。アグリッピナはなんとかネロを懐柔しようとします。カリグラ帝を暗殺したいとき然り、パルラスを情夫にしたとき然り、彼女にとって政治を動かしたいときに取る手段、それは色仕掛けの他ありません。アグリッピナにとって近親相姦など些細な問題にすぎませんでした。
 意志が弱く道徳観念に欠けるネロは、ゴテゴテに白粉を塗り若作りした母親の捨て身の誘惑にあっさりと負け、白昼堂々と母親を抱きました。

追放と最期

 ですが、その関係も長くは続きません。もともと飽きっぽかったネロは、ほどなくしてアグリッピナに嫌気が差し別の宮殿へと追いやることに決めました。
 政治の表舞台から追いやられたアグリッピナは、ネロの周囲で不満を持つものたちを集めて密議を行うようになります。このクーデター計画は後に発覚することとなりますが、アグリッピナはその口のうまさでなんとか疑惑をかわしきりました。

 これを受けてネロの周囲でもアグリッピナを殺害するべきとの意見が相次ぎましたが、その中でも急先鋒はネロの情婦ポッパエアでした。このポッパエアはネロの男色の相手であったオトの結婚相手で、ネロがポッパエアを気に入るやすぐさま離婚してネロに譲るという、当時のローマ特有の奇妙な三角関係でした。
 そのポッパエアはアグリッピナに負けず劣らず権威欲が強い人物でした。どうしても皇妃になりたかったポッパエアはアグリッピナを最大の障害と見るや、ネロに母親殺害を強く迫ります。正妻であるオクタヴィアを投げ打つほどにポッパエアの虜となっていたネロは、それに頷くしかありませんでした。

 しかしアグリッピナは誰よりも毒薬に詳しく、毒殺では取り逃がす可能性のほうがはるかに高いと予測されました。そこでネロは一計を案じ、手紙で王宮に呼び寄せその道中で殺そうとしますが、上手く行かず失敗に終わります。最終的にはその失敗した部下がアグリッピナの別邸に乗り込んで、真っ向殺害するに至りました。
 ネロは母親の遺骸が目の前に運ばれると、その肌に触れ「ああ、お母さんの身体はこんなに綺麗だったんだなあ!」と言ったといわれます。

 「この子はやがて皇帝となり、母を殺すだろう」というネロが生まれた時の神託は、本当に実現したのでした。


参考文献
澁澤龍彦/『世界悪女物語』/文藝春秋
森下賢一/『国を傾けた女たちの手くだ』/白水社
岳真也/『悪女たちの残酷史』/講談社
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